- 朗読
公開日2023年06月01日 23:25
更新日2023年06月01日 23:25
文字数
5565文字(約 18分33秒)
推奨音声形式
指定なし
推奨演者性別
指定なし
演者人数
1 人
演者役柄
指定なし
視聴者役柄
指定なし
場所
指定なし
あらすじ
カエルが物心をついた頃にはすでに井戸の中にいました。
20230303
20230303
本編
カエルが物心をついた頃にはすでに井戸の中にいました。
暗くて冷たい、太陽の光も届きにくい場所です。
しとしとと、じめじめと。
人も寄り付かない古井戸なのでしょう。底の方にわずかに作る水溜りに、壁の低い場所に、緑色の苔がびっしりと生えています。
晴れた朝はその苔についた雫で顔を洗うのがカエルの日課です。
寝ぼけまなこを澄んだ水で拭い見上げれば、井戸の縁でまん丸に切り取られた空はどこまでも青く、ふわふわとした雲が長閑に浮かんでいました。
上空の風が今日は穏やかなのでしょう。雲はじっと動かず、まるでカエルに朝の挨拶をしたまま眠ってしまったかのようにそこにいます。
おはよう、雲さん、そう言おうとして、カエルは慌てて言葉を飲み込みました。
前にカラスの子供に、雲はうんとうんと高いところにあるのだから、お前の小さな声なんて届くもんかと笑われたことがあったからです。
聞けば、空を飛ぶカラスの子達にさえ届かないところに雲はあると言います。それではなおのこと、こんなにもちっぽけで、古井戸の深く深く底に住まうカエルの声なんて届くはずがありません。
カエルはカラスの子達の笑う声を思い出しただけで、涙が溢れそうになるのを堪え、それでも透き通った青い空と、のんびりと浮かぶ雲を見つめました。
どれほどそうしていたことでしょう。雲の形がゆらゆらと変わり、切れ切れになる頃に、空を遮る丸い頭がぴょこりとこちらを覗き込みました。
「おはよう、カエルの子」
「おはよう、ヒバリさん」
正確に言えば、カエルの子はおたまじゃくしです。カエルになった今、大人なはずなのです。
けれど、小さな体のせいでしょうか、それとも卵の頃にはぐれてこの古井戸にひとり取り残されたカエルをあわれに思ってなのでしょうか。石造りの縁に立ち寄り、声をかけてくれる様々な鳥達は、「カエルの子」と呼びました。
「桜が咲き始めたよ」
「もう春なんですね」
春を告げる鳥であるヒバリの言う桜は、たおやかな白にもピンクにも似た花を、まるで花籠のように咲き誇らせた木だと言います。
けれどカエルは桜を見たことがありませんので、ただただ想像するしかないのです。
桜だけではありません。木も、花籠も、ピンクという色さえもよくわかりません。古井戸の中は光が届きにくく、黒とわずかな緑に囲まれた世界だからです。
わからない、というカエルにここに訪れる鳥達は口々にどういうものなのか懇切丁寧に教えてくれるので、少しずつ、少しずつ覚えていきました。
せめて、花びらの一枚でも舞い込んでくれたなら、どのような花なのか想像できたのかも知れません。
けれど、古井戸の周りに咲く花はないのでしょう。待っても待っても、迷い込んでは来てくれない花びらを期待することさえ、カエルはいつの間にかやめてしまいました。
だから、ヒバリのように、こうして井戸の外の世界を教えてくれる鳥達が、カエルにとっては何よりも楽しみだったのです。
夏になればツバメが立ち寄り、色とりどりの野菜の美しさや、海の色がキラキラと輝いていること、一面に黄色い花の続くひまわり畑の話をしてくれます。
秋になればツグミが訪れ、木の実のたわわに実る様子や、緑から赤や黄色へ木々の葉の色が変わるその鮮やかさを、伝えてくれます。
冬はカエルも冬眠へと入るのですが、必ず眠りに着く前に、まるで子守唄のようにヤマガラが氷や雪達が作り出す綺麗な景色を語ってくれるのです。
「ヒバリさん、ヒバリさん、もうタンポポの花は咲きましたか」
「うん、咲いたよ。今年も黄色の花をたくさんつけて可愛らしいよ」
「ならシロツメクサは?」
「咲いているよ。この間、子供達が花冠にして遊んでいるのを見かけたよ」
カエルは小さな頭で必死に覚えた花々を指折り数えてはヒバリに尋ねます。ヒバリもそんなカエルの様子がいじらしく、この地に戻る途中で見た物事を伝えてはカエルを喜ばせました。
ああ、なんて羨ましいのでしょう。
この世界には様々な色形の草花が生い茂り、鳥や動物や人が楽しく暮らしているのです。
真っ暗な井戸の底で、ひとりぼっちのカエルの想像力では追いつかないほどに美しい世界が広がっているに違いありません。
この高い高い井戸の壁をよじ登り、そうして外に出られたならば、カエルだって美しい世界の一部になれるかも知れないのに。
けれど、小さなその体では登り切るまでに途方もない時間がかかってしまうことは目に見えています。それほどにまでカエルのいる古井戸は深く、地の底にあるのです。
自分には無理だ。登れっこない。
仮に登り切れたとしても外の世界を知らない自分がどうして美しい世界の住人になんてなれるだろう。
きっとカラスの子達のように、何も知らないカエルを笑う者だっているでしょう。
そんな悲しい想像をしてしまったら、この丸い丸い縁から見える空の色と、時折立ち寄る鳥達が教えてくれる世界が自分の全てで構わないと、そう思えてしまうのです。
「カエルの子、それではね」
「ヒバリさん、ありがとうございます。また立ち寄ってくれたら嬉しいです」
飛び立つヒバリの羽ばたきが聞こえなくなるまで、カエルは手を振り続けました。
眠って起きて、朝が来ます。
雨の日は古井戸にも水が溜まり、カエルは溺れないようにと壁の苔にしがみついてやり過ごします。
晴れれば再び苔の雫で顔を洗い、丸く切り取られた空を眺めて過ごすのです。
空はよくよく見ると毎日同じ色ではありません。
同じように見える青でも、俄に薄かったり、濃かったりと様々な色を見せてくれます。
青だけではありません。
曇りの日の白と灰色のグラデーションや、朝夕の二つとない空の色。
変わり映えのない井戸の中から見上げる空は、鳥達がいない時のカエルにとっての友達です。
空の色の選手権をしたら、井戸暮らしのこのカエルは中々に良い成績を納めるかも知れません。
だからこそ、わかるのです。
空の色が少しずつ、少しずつ、翳りを見せていることに。
澄み渡った晴れの日さえも、以前のような輝くような美しさの青はなく、一枚、薄い灰色の雲に隠れたような色味に変わっていました。
そういえば、最近鳥達も立ち寄る頻度が減ったように思います。
小さな胸が不安に押しつぶされそうになりながらも、それでもカエルには空を眺めることしかできませんでした。
春が過ぎ去り、夏も通り、ある秋の日のことです。
井戸の縁に一羽のモズが止まりました。
「君かな、この井戸に住むカエルの子は」
モズの声はどこか弱々しく、息も上がり、一言一言を発することさえ辛そうです。
「はじめましてのモズさんですね。そうです、カエルです」
カエルの必死に張り上げた声に、モズは安心したのでしょう。くぐもった声でそれでも優しく頷きます。
「ツグミから、伝言を預かってきたよ」
「ツグミさん!」
夏はとうに過ぎたというのに、よくここに止まりにくるツグミの顔が見られていないことにカエルは心配になっていたところでした。だからモズがツグミの名前を出したことが嬉しくて、けれど同時に、ならなぜ、顔を見せてはくれないのかしらと悲しくなってしまいます。
「今年も、木々が赤々として、それはそれは鮮やかで、綺麗だよって」
モズの声には徐々に弱々しくなっていきます。しかし反比例するように荒くなっていく吐息に、カエルは心配になりました。
カエルの、モズさんと呼ぶ声に応じるようにモズは言います。
「秋が過ぎて、冬に眠り、春になるまで、たとえ鳥達が来なくなっても、絶対に空を見上げてはいけないよ」
カエルにとっての空は全てです。
何も持たない小さなカエルには、空を眺めることしかできません。
いつもは優しく実の赤さやイチョウの黄色を教えてくれるツグミさんが、なぜそんな、カエルを悲しませるようなことを言うのでしょう。
どうしてツグミさんは来てくれなかったのでしょう。
「モズさん、ツグミさんはお元気なのですか」
カエルは必死に問いかけます。
しかし今度はモズは答えてくれませんでした。
気付けばあんなにも辛そうに井戸の中に反響していた息の音も、どんなに耳を澄ましても聞こえなくなっています。
カエルはいつも顔を洗っている苔にしがみつき、静かに静かに声も上げずに泣きました。
空を見上げてはいけないよ。
モズさんが教えてくれたツグミさんの言葉です。
古井戸の底で僅かに残る水溜りには、反射した空が映り込みます。
けれど水面に映った空の色は歪んでいて判然としません。
古井戸の底のひとりぼっちのカエルは、水溜り越しに見る空を眺めながら来る日も来る日も考えました。
そうしてある日、カエルは決心をしました。
壁を登り、外に出ることにしたのです。
それは必死にツグミの言葉を伝えてくれたモズのことも、モズに言葉を託したツグミのことも裏切ることです。そう思ったら小さな胸は、ぎゅうっといつになく強い痛みを訴えます。
けれど、きっと二羽の鳥達がそう伝えてくれたのは、何か意味があるのではないかと、そんな気がしてしまうのです。
苔を頼りにカエルは壁をよじ登ります。
生まれて初めてのことなので、どこに指をかければいいのか、どのように足を置けば良いのか皆目見当もつきません。
それでもただただがむしゃらにカエルは苔にしがみつきました。
卵の頃、ひとりはぐれてこの井戸に落とされていなければ、もしかしたら、母のカエルや兄弟達が上手い登り方を教えてくれたかも知れません。けれど、そんなたらればも、一人きりでこの場所で暮らしてきたカエルには栓なきことなのです。
季節が冬になる前に、せめて上がり切らなければ。登っている間に冬になってしまうなら、また底におずおずと戻って冬眠をしなければいけません。
ある程度の高さまでくると、雨が降った時さえも水をかぶらないところには苔が無くなります。
カエルはその頼りない、無愛想な剥き出しの石壁を、不器用に掴むしかありません。苔とは勝手の違う井戸の壁は、まるでその名の通りカエルを阻んでいるようで、何度もずり落ちそうになっては腹に顔にと細かな擦り傷を幾重にも作りました。痛みに耐えて登り続けると、それぞれ四本しかない手足の指は皮膚が裂け血が止まらなくなったもの、おかしな方向に曲がったまま戻らなくなってしまったもの、欠けてしまったものがありました。
けれど、カエルはただただ猛然と壁を登り続けます。
時折、なぜ自分は壁を登り始めたのだろうと、そんなことさえ思っては、また一歩、一歩ずつ近づく井戸の縁を見上げて、遥か遠くにある井戸の底を見下ろして、頭を左右に振りました。
傷だらけで、ボロボロになったカエルが井戸の縁に手をかけたのは、秋が終わりを迎える頃です。ギリギリのタイミングでカエルは冬が来る前に間に合いました。
ぴゅー、ぴゅーと頬に当たる風は冷たく、傷を撫でるようで思わず身震いをします。
ああ、これが風なんだ。
井戸の奥深くまでは風もうまく入ってくることができないのです。
最後の力を振り絞り、カエルは縁に足をかけ、よいしょと体を引き上げると、そのままごろんと寝転びました。
それもそのはずです。壁を登っている間は、こうして寝転ぶことすらできなかったのですから。
仰向けになって自然と対面する形となった空は、どこまでもどこまでも続いていました。
けれど、カエルが登り始めるよりも、いいえ、ずっとずっとその前の頃と比べるとくすんでいて、せっかく少し近づくことができたというのに大好きだったかつての青は、もうありませんでした。
カエルはしばらく空を眺め、けれどそれも飽きてしまう頃には、あちらこちら痛む身体を引きずるように、ノロノロと起き上がります。
冬に向かう季節です。
鳥達が教えてくれた通りならば、一面には赤や黄色、橙色の柔らかくて良い匂いのする枯葉がクッションとなって地面を覆い、葉を落とした木々は黒々として冬支度を始めていることでしょう。
けれど、何もありませんでした。
カエルが今まで大切に思い描いた秋の景色は、ぐるりと見回しても、どこにもないのです。
地は焼け焦げ、赤黒く染まった土が丸裸となり、きっと周囲にあったであろう木々はまるで幽鬼のように折れた枝を痛々しくぶら下げています。
子供達が花冠を作れそうな野原も、春になれば咲き誇りそうな桜の木の姿も、ありません。
ここは小高い丘の上なのでしょう。遠く、目を凝らせば海が見えます。海に沿って街並みもあります。
けれど家々からは黒い煙が細く上がり、海は岸に向けて赤く染まっていました。
鳥達が話してくれたのは、美しい世界の話でした。
花々が咲き、実を結び、子供達が野花で遊ぶ、美しい世界の話でした。
鳥達はいつからカエルに本当のことを言ってくれなくなっていたのでしょうか。
それとも、自分達が見聞きしてきたものをカエルに託してくれていたのでしょうか。
井の中の、外には出てこられないカエルだからこそ、美しい世界を語ってくれたのでしょうか。
だってただの一度だって鳥達は花も木の実も、その一つさえカエルのいる井戸の底に投げ入れてはくれなかったのですから。
本当のことはもうわかりません。
けれどひとつだけカエルにもわかることがあるのです。
花の名を教えてくれた鳥も、野菜の名を教えてくれた鳥も、木の実の名を教えてくれた鳥も、雪の名を教えてくれた鳥も、きっともうカエルの下(もと)には来ないのでしょう。
傷だらけの小さなカエルは、失った指を見つめて一つだけ涙を零し、そのまま石造りの井戸の縁に横になりました。
くたくたで、傷だらけで、とてもとても疲れてしまっていたのです。
暗くて冷たい、太陽の光も届きにくい場所です。
しとしとと、じめじめと。
人も寄り付かない古井戸なのでしょう。底の方にわずかに作る水溜りに、壁の低い場所に、緑色の苔がびっしりと生えています。
晴れた朝はその苔についた雫で顔を洗うのがカエルの日課です。
寝ぼけまなこを澄んだ水で拭い見上げれば、井戸の縁でまん丸に切り取られた空はどこまでも青く、ふわふわとした雲が長閑に浮かんでいました。
上空の風が今日は穏やかなのでしょう。雲はじっと動かず、まるでカエルに朝の挨拶をしたまま眠ってしまったかのようにそこにいます。
おはよう、雲さん、そう言おうとして、カエルは慌てて言葉を飲み込みました。
前にカラスの子供に、雲はうんとうんと高いところにあるのだから、お前の小さな声なんて届くもんかと笑われたことがあったからです。
聞けば、空を飛ぶカラスの子達にさえ届かないところに雲はあると言います。それではなおのこと、こんなにもちっぽけで、古井戸の深く深く底に住まうカエルの声なんて届くはずがありません。
カエルはカラスの子達の笑う声を思い出しただけで、涙が溢れそうになるのを堪え、それでも透き通った青い空と、のんびりと浮かぶ雲を見つめました。
どれほどそうしていたことでしょう。雲の形がゆらゆらと変わり、切れ切れになる頃に、空を遮る丸い頭がぴょこりとこちらを覗き込みました。
「おはよう、カエルの子」
「おはよう、ヒバリさん」
正確に言えば、カエルの子はおたまじゃくしです。カエルになった今、大人なはずなのです。
けれど、小さな体のせいでしょうか、それとも卵の頃にはぐれてこの古井戸にひとり取り残されたカエルをあわれに思ってなのでしょうか。石造りの縁に立ち寄り、声をかけてくれる様々な鳥達は、「カエルの子」と呼びました。
「桜が咲き始めたよ」
「もう春なんですね」
春を告げる鳥であるヒバリの言う桜は、たおやかな白にもピンクにも似た花を、まるで花籠のように咲き誇らせた木だと言います。
けれどカエルは桜を見たことがありませんので、ただただ想像するしかないのです。
桜だけではありません。木も、花籠も、ピンクという色さえもよくわかりません。古井戸の中は光が届きにくく、黒とわずかな緑に囲まれた世界だからです。
わからない、というカエルにここに訪れる鳥達は口々にどういうものなのか懇切丁寧に教えてくれるので、少しずつ、少しずつ覚えていきました。
せめて、花びらの一枚でも舞い込んでくれたなら、どのような花なのか想像できたのかも知れません。
けれど、古井戸の周りに咲く花はないのでしょう。待っても待っても、迷い込んでは来てくれない花びらを期待することさえ、カエルはいつの間にかやめてしまいました。
だから、ヒバリのように、こうして井戸の外の世界を教えてくれる鳥達が、カエルにとっては何よりも楽しみだったのです。
夏になればツバメが立ち寄り、色とりどりの野菜の美しさや、海の色がキラキラと輝いていること、一面に黄色い花の続くひまわり畑の話をしてくれます。
秋になればツグミが訪れ、木の実のたわわに実る様子や、緑から赤や黄色へ木々の葉の色が変わるその鮮やかさを、伝えてくれます。
冬はカエルも冬眠へと入るのですが、必ず眠りに着く前に、まるで子守唄のようにヤマガラが氷や雪達が作り出す綺麗な景色を語ってくれるのです。
「ヒバリさん、ヒバリさん、もうタンポポの花は咲きましたか」
「うん、咲いたよ。今年も黄色の花をたくさんつけて可愛らしいよ」
「ならシロツメクサは?」
「咲いているよ。この間、子供達が花冠にして遊んでいるのを見かけたよ」
カエルは小さな頭で必死に覚えた花々を指折り数えてはヒバリに尋ねます。ヒバリもそんなカエルの様子がいじらしく、この地に戻る途中で見た物事を伝えてはカエルを喜ばせました。
ああ、なんて羨ましいのでしょう。
この世界には様々な色形の草花が生い茂り、鳥や動物や人が楽しく暮らしているのです。
真っ暗な井戸の底で、ひとりぼっちのカエルの想像力では追いつかないほどに美しい世界が広がっているに違いありません。
この高い高い井戸の壁をよじ登り、そうして外に出られたならば、カエルだって美しい世界の一部になれるかも知れないのに。
けれど、小さなその体では登り切るまでに途方もない時間がかかってしまうことは目に見えています。それほどにまでカエルのいる古井戸は深く、地の底にあるのです。
自分には無理だ。登れっこない。
仮に登り切れたとしても外の世界を知らない自分がどうして美しい世界の住人になんてなれるだろう。
きっとカラスの子達のように、何も知らないカエルを笑う者だっているでしょう。
そんな悲しい想像をしてしまったら、この丸い丸い縁から見える空の色と、時折立ち寄る鳥達が教えてくれる世界が自分の全てで構わないと、そう思えてしまうのです。
「カエルの子、それではね」
「ヒバリさん、ありがとうございます。また立ち寄ってくれたら嬉しいです」
飛び立つヒバリの羽ばたきが聞こえなくなるまで、カエルは手を振り続けました。
眠って起きて、朝が来ます。
雨の日は古井戸にも水が溜まり、カエルは溺れないようにと壁の苔にしがみついてやり過ごします。
晴れれば再び苔の雫で顔を洗い、丸く切り取られた空を眺めて過ごすのです。
空はよくよく見ると毎日同じ色ではありません。
同じように見える青でも、俄に薄かったり、濃かったりと様々な色を見せてくれます。
青だけではありません。
曇りの日の白と灰色のグラデーションや、朝夕の二つとない空の色。
変わり映えのない井戸の中から見上げる空は、鳥達がいない時のカエルにとっての友達です。
空の色の選手権をしたら、井戸暮らしのこのカエルは中々に良い成績を納めるかも知れません。
だからこそ、わかるのです。
空の色が少しずつ、少しずつ、翳りを見せていることに。
澄み渡った晴れの日さえも、以前のような輝くような美しさの青はなく、一枚、薄い灰色の雲に隠れたような色味に変わっていました。
そういえば、最近鳥達も立ち寄る頻度が減ったように思います。
小さな胸が不安に押しつぶされそうになりながらも、それでもカエルには空を眺めることしかできませんでした。
春が過ぎ去り、夏も通り、ある秋の日のことです。
井戸の縁に一羽のモズが止まりました。
「君かな、この井戸に住むカエルの子は」
モズの声はどこか弱々しく、息も上がり、一言一言を発することさえ辛そうです。
「はじめましてのモズさんですね。そうです、カエルです」
カエルの必死に張り上げた声に、モズは安心したのでしょう。くぐもった声でそれでも優しく頷きます。
「ツグミから、伝言を預かってきたよ」
「ツグミさん!」
夏はとうに過ぎたというのに、よくここに止まりにくるツグミの顔が見られていないことにカエルは心配になっていたところでした。だからモズがツグミの名前を出したことが嬉しくて、けれど同時に、ならなぜ、顔を見せてはくれないのかしらと悲しくなってしまいます。
「今年も、木々が赤々として、それはそれは鮮やかで、綺麗だよって」
モズの声には徐々に弱々しくなっていきます。しかし反比例するように荒くなっていく吐息に、カエルは心配になりました。
カエルの、モズさんと呼ぶ声に応じるようにモズは言います。
「秋が過ぎて、冬に眠り、春になるまで、たとえ鳥達が来なくなっても、絶対に空を見上げてはいけないよ」
カエルにとっての空は全てです。
何も持たない小さなカエルには、空を眺めることしかできません。
いつもは優しく実の赤さやイチョウの黄色を教えてくれるツグミさんが、なぜそんな、カエルを悲しませるようなことを言うのでしょう。
どうしてツグミさんは来てくれなかったのでしょう。
「モズさん、ツグミさんはお元気なのですか」
カエルは必死に問いかけます。
しかし今度はモズは答えてくれませんでした。
気付けばあんなにも辛そうに井戸の中に反響していた息の音も、どんなに耳を澄ましても聞こえなくなっています。
カエルはいつも顔を洗っている苔にしがみつき、静かに静かに声も上げずに泣きました。
空を見上げてはいけないよ。
モズさんが教えてくれたツグミさんの言葉です。
古井戸の底で僅かに残る水溜りには、反射した空が映り込みます。
けれど水面に映った空の色は歪んでいて判然としません。
古井戸の底のひとりぼっちのカエルは、水溜り越しに見る空を眺めながら来る日も来る日も考えました。
そうしてある日、カエルは決心をしました。
壁を登り、外に出ることにしたのです。
それは必死にツグミの言葉を伝えてくれたモズのことも、モズに言葉を託したツグミのことも裏切ることです。そう思ったら小さな胸は、ぎゅうっといつになく強い痛みを訴えます。
けれど、きっと二羽の鳥達がそう伝えてくれたのは、何か意味があるのではないかと、そんな気がしてしまうのです。
苔を頼りにカエルは壁をよじ登ります。
生まれて初めてのことなので、どこに指をかければいいのか、どのように足を置けば良いのか皆目見当もつきません。
それでもただただがむしゃらにカエルは苔にしがみつきました。
卵の頃、ひとりはぐれてこの井戸に落とされていなければ、もしかしたら、母のカエルや兄弟達が上手い登り方を教えてくれたかも知れません。けれど、そんなたらればも、一人きりでこの場所で暮らしてきたカエルには栓なきことなのです。
季節が冬になる前に、せめて上がり切らなければ。登っている間に冬になってしまうなら、また底におずおずと戻って冬眠をしなければいけません。
ある程度の高さまでくると、雨が降った時さえも水をかぶらないところには苔が無くなります。
カエルはその頼りない、無愛想な剥き出しの石壁を、不器用に掴むしかありません。苔とは勝手の違う井戸の壁は、まるでその名の通りカエルを阻んでいるようで、何度もずり落ちそうになっては腹に顔にと細かな擦り傷を幾重にも作りました。痛みに耐えて登り続けると、それぞれ四本しかない手足の指は皮膚が裂け血が止まらなくなったもの、おかしな方向に曲がったまま戻らなくなってしまったもの、欠けてしまったものがありました。
けれど、カエルはただただ猛然と壁を登り続けます。
時折、なぜ自分は壁を登り始めたのだろうと、そんなことさえ思っては、また一歩、一歩ずつ近づく井戸の縁を見上げて、遥か遠くにある井戸の底を見下ろして、頭を左右に振りました。
傷だらけで、ボロボロになったカエルが井戸の縁に手をかけたのは、秋が終わりを迎える頃です。ギリギリのタイミングでカエルは冬が来る前に間に合いました。
ぴゅー、ぴゅーと頬に当たる風は冷たく、傷を撫でるようで思わず身震いをします。
ああ、これが風なんだ。
井戸の奥深くまでは風もうまく入ってくることができないのです。
最後の力を振り絞り、カエルは縁に足をかけ、よいしょと体を引き上げると、そのままごろんと寝転びました。
それもそのはずです。壁を登っている間は、こうして寝転ぶことすらできなかったのですから。
仰向けになって自然と対面する形となった空は、どこまでもどこまでも続いていました。
けれど、カエルが登り始めるよりも、いいえ、ずっとずっとその前の頃と比べるとくすんでいて、せっかく少し近づくことができたというのに大好きだったかつての青は、もうありませんでした。
カエルはしばらく空を眺め、けれどそれも飽きてしまう頃には、あちらこちら痛む身体を引きずるように、ノロノロと起き上がります。
冬に向かう季節です。
鳥達が教えてくれた通りならば、一面には赤や黄色、橙色の柔らかくて良い匂いのする枯葉がクッションとなって地面を覆い、葉を落とした木々は黒々として冬支度を始めていることでしょう。
けれど、何もありませんでした。
カエルが今まで大切に思い描いた秋の景色は、ぐるりと見回しても、どこにもないのです。
地は焼け焦げ、赤黒く染まった土が丸裸となり、きっと周囲にあったであろう木々はまるで幽鬼のように折れた枝を痛々しくぶら下げています。
子供達が花冠を作れそうな野原も、春になれば咲き誇りそうな桜の木の姿も、ありません。
ここは小高い丘の上なのでしょう。遠く、目を凝らせば海が見えます。海に沿って街並みもあります。
けれど家々からは黒い煙が細く上がり、海は岸に向けて赤く染まっていました。
鳥達が話してくれたのは、美しい世界の話でした。
花々が咲き、実を結び、子供達が野花で遊ぶ、美しい世界の話でした。
鳥達はいつからカエルに本当のことを言ってくれなくなっていたのでしょうか。
それとも、自分達が見聞きしてきたものをカエルに託してくれていたのでしょうか。
井の中の、外には出てこられないカエルだからこそ、美しい世界を語ってくれたのでしょうか。
だってただの一度だって鳥達は花も木の実も、その一つさえカエルのいる井戸の底に投げ入れてはくれなかったのですから。
本当のことはもうわかりません。
けれどひとつだけカエルにもわかることがあるのです。
花の名を教えてくれた鳥も、野菜の名を教えてくれた鳥も、木の実の名を教えてくれた鳥も、雪の名を教えてくれた鳥も、きっともうカエルの下(もと)には来ないのでしょう。
傷だらけの小さなカエルは、失った指を見つめて一つだけ涙を零し、そのまま石造りの井戸の縁に横になりました。
くたくたで、傷だらけで、とてもとても疲れてしまっていたのです。
クレジット
ライター情報
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※投げ銭システム(課金・無課金限らず)やPVを稼ぐことで収益のある配信方法での上演につきましても同様です。
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